『ユマニチュードに出会って』 第6回 斉藤直子さん
家族介護者の体験談をご紹介します
ユマニチュードはご家族の介護をしていらっしゃる方にも役に立ちます。ご自宅での介護がうまくいかずに困っているときにユマニチュードと出会い、再びご家族との良い時間を過ごせることになった方々が多くいらっしゃいます。そうした皆さまから、ユマニチュードを実践した体験と感想をお伺いしました。
ユマニチュードをご家族の介護に役立てている方がたくさんいらっしゃいます。そうした皆さまの体験談をご紹介しましょう。第6回は、本田美和子代表理事へのユマニチュードの取材をきっかけに認知症のお母様と素晴らしい体験をされたという、ライターの斉藤直子さんのお話です。斉藤さんは女性週刊誌に介護についての連載を長年続けていらっしゃいました。斉藤さんからのお手紙と斉藤さんへのインタビューをお届けします。
斉藤さんから本田先生へのお手紙
斉藤さんから本田先生へのお手紙
本田美和子先生
取材ではお世話になりました。本田先生にご教示いただき、認知症の実母との関わりに大きな力をいただきました。本日はぜひそのことを先生にお伝えしたくてご連絡しました。
「認知症の人(に限らずかもしれませんが)の“輝いていた頃”の話を聞いて」というご教示がとても心に響きました。「最近、自分が連れて行った旅行とか孫を介した思い出ではなく、老親が現役世代として輝いていた頃」と先生は言われました。
確かに老親介護の場面では、つい自分(子供)の目線で考えてしまいます。自分が生まれる前の、親の若い頃のことなど思いも及んでいないことに気づき、誰の人生もうんと長いことに改めて気づきました。
私の母はもともと実家の家業であるテーラー(注文紳士服の仕立て)の仕事をしておりました。兄弟の中でも母は特に手先が器用で、職人だった祖父に見込まれて高校卒業後、家業を手伝っていたのです。
結婚し、私が生まれてからも自宅に仕事場を作りコツコツと服を縫っておりました。時々、上等な服地を持った洋服屋さんが訪ねて来て、「よろしくお願いします」と母に頭を下げて依頼しているのを見て、幼心に母を自慢に思ったものです。母は私が大学に入る頃まで仕事をしておりました。
ところが母が認知症になってから、自分は「幼稚園の先生だった」と言い出したのです。実は私の娘(母の孫)が保育士志望で、時々学校で勉強したことや実地研修の話をしていたので、母が認知症で妄想しているのだと思いました。
しかしながら、「ピアノを弾いていた」「目白駅前に通っていた」「3歳児の担当だった」など妙に具体的な話が出て来るので、だんだん気になって来て、まさかと思いながら調べたのです。
すると目白駅前に、創立100年を超す幼稚園(目白幼稚園)があり、ずいぶん迷ってから問い合わせをしてみたところ、なんと大当たりでした!
正確には幼稚園教諭として働いたのではなく、母が22歳(昭和30年頃)のとき、幼稚園に併設された幼稚園教諭・保育士を輩出する専門学校で1年間学んでおりました。当時は授業がない時に学生が幼稚園で子供たちの世話をしていたそうで、母の記憶はおそらくその時のもの。結局、幼稚園に就職はせず、家業に戻ったようでした。
この件を調べてくださったのが目白幼稚園の本部長さんで、前の園長先生(女性)の息子さんでした。そして偶然にも、その園長先生は専門学校で母と同期生だったのです。残念ながら今年2月に逝去されてしまったのですが、ちょうどその頃に、悩みに悩んだ私が問い合わせをしたため、本部長さんもご縁を感じてくださったようです。
そんなことで、3月末、母と娘と私とで目白幼稚園を訪ねました。母が通っていた頃と同じ場所ではありますが、建物はきれいに建て替えられていて、流石に母も懐かしさを感じることはなかったようです。本部長さんが目白幼稚園の教育理念などを話してくださるのも、「分からないかな・・・退屈してそっぽを向いてしまうかな」と心配したのですが、母は真剣に聞き入り、本部長さんの話に呼応するように「そうよ! 子供は自由にさせて育てなきゃね」と言いました。嬉しかったです。
目白幼稚園は自然主義教育を実践した和田実さんという教育者が創始者で、「子供の遊びに手を出してはいけない」「子供が遊びを創造する力を奪ってはいけない」という教えが理念でした。母が幼稚園の先生だったとは夢にも思わなかったけれど、そう言われると私を育てた母の中にそんな教えがあったようにも感じます。今思い出すと、ですが。
前の園長先生と母が一緒に収まった専門学校の卒業写真も見せていただき、わずか1年でも本当に母が幼稚園の先生であったことを知ることができたのは、私の人生にはとても大きな出来事でした。
母はといえば、事前に言って聞かせた細かな説明にはどうもピンと来なかったようですが、幼稚園で幼児教育について語り合った時間が、とてもしっくりと来ていたように感じました。何かは感じてくれたのではと思います。
同行した娘(母の孫)が、ちょうど母が目白幼稚園に通っていた頃と同じ22歳。保育士として社会に出る直前の春休みでした。私もこの年齢だからこそ、今回の出会いに感動できたのかなと思います。人生の感動を親子で共有できることが、人生の後半の大きな喜びだと思いました。認知症かどうかは関係なく。
本田先生のお言葉から思い切って踏み出すことができ、ぜひお伝えしたく思いました。今度とも同時よろしくご指導くださいませ。
斉藤直子
斉藤さんへのインタビュー
『知識を活かせなかった後悔』
-素敵な体験談をありがとうございます。お母様が認知症と診断されたのはいつのことでしょうか。
斉藤さん 2013年のお正月のことでした。数年前から家の中が散らかったり、冷蔵庫の中に腐ったものがいっぱいあったりと「多分、認知症だろうな」とは思っていたのですが、夫婦で無事に暮らしていましたので、私も娘の受験のことなどがあり、恥ずかしながら見て見ぬ振りをしていた感じでした。
ところが、年末に父が急死して、母が一人ぼっちになってしまいまして、介護保険のサービスを使うためには介護認定を受ける必要がありますから、そのためにもと年明けに診断を受けようということになりました。
—診断を受けられていかがでしたか。
診断を受けて母もショックだったようで、何というか急にすごく認知症らしい感じになってしまいました。介護保険を使いケアマネジャーさんをつけ、ヘルパーさんに来てもらったりと態勢を整えて1年間は一人暮らしをしていたのですが、BPSD(認知症の行動・心理症状)が悪化し、顔つきも変わり、私にもいつも攻撃的でコミュニケーションが取れない感じになってしまい、お互いに一番辛い時期でした。
—日常的なことはお一人でできたのですね。
そうなんです。トイレもお風呂も大丈夫ですし、買い物も行きますし、新聞も読みます。表面的に日常生活はできたので最初の認定は要介護1で、ヘルパーさんにもちょっと見守ってもらうという感じでした。私は同じ沿線で数駅離れたところに住んでいて、毎日電話すると「買い物も行って、毎日ご飯も食べてるから大丈夫」と言うんですけど、今考えると無理があったんですよね、本当は食べていなかったらしく激痩せしてしまったんです。
—その頃、お母様は何歳でいらっしゃったのですか。
当時78歳で、年齢的にも70代はまだ生活者としては大丈夫という思い込みもあり、ケアマネさんやヘルパーさんという目もあるしと油断をしてしまった。激痩せして、さらに驚いたのが、家に行ったら母の前髪や眉毛が焼け焦げていたんです。料理の時に火加減を見ようとして燃えたようなのですが、本人にその認識が全くない。これはもう一人暮らしは無理だと思い、施設を探し始めました。
とはいえ、当時の私は施設というといわゆる老人ホームというイメージしかなく「ついに施設に母を入れるのか」と思ってしまい、かなり躊躇しました。でも調べると、自由度の高いサービス付き高齢者向け住宅(サ高住)というものもあることが分かり、サ高住を中心にかなりの数の施設を見学しました。
私は高齢者や介護のことをいろいろと取材もして、情報はたくさんあったのですが、それを自分のことに活かすことができていなかったんです。記事では「まず地域包括支援センターに相談」などと書いているのに、自分では知った気になって行かなかった。実際に専門家に相談して話を聞くことが、介護にはとても大切なことだと思います。
—お母様は施設のお話をすんなりと受け入れてくださいましたか。
言い出すのにすごく躊躇したのですが、「家も汚くなって来て、一人暮らし難しそうだから引っ越す?」と聞いてみたら、母があっさりと「引っ越す、引っ越す」って。母もなんとかしたいと思っていたんだと気づいて、そこに至るまでに一年もかかってしまったことが悔やまれました。
転居先も私が三つに絞った施設とサ高住から、駅に近い賑やかな商店街にある施設を母自身が選びました。そこに移ったら見る見るうちに穏やかな母に戻り、今はとても楽しそうに過ごしています。
『輝いていた頃のエネルギー』
—ユマニチュードについては本田代表理事に取材する前からご存知でしたか。
取材などを通して名前は知っていましたが、介護の専門の方が学ぶものと思っていて、私が連載していた女性週刊誌の読者には、ちょっと縁遠いかなと考えていました。それでも介護の現場で大きな成果を上げているというユマニチュードには興味があり、ぜひお話を伺いたく思っていました。そこで、ユマニチュードの技法の根底にある 「介護家族でやりがちな間違い」「どんな姿勢で認知症の家族と向き合えばよいか」を、本田先生にアドバイスいただくという形で取材したのです。とてもよい取材をさせていただきました。
—その中でお手紙にあるようにご本人の「輝いていた頃の話」をするということに感銘を受けられた。
そうです。認知症の家族として一番、心に響きました。「昔の話」となると、どうしても子供目線のもの、本人にとっては親になってからの思い出話になってしまう。どんなに古くても私が小さい頃に行った家族旅行の思い出で、あとは、私が大人になって年取った母を旅行に連れて行ったとか、孫の成長を見せたとかになってしまう。「そこじゃなくて、お母様ご本人が長い人生の中でいちばん輝いていたところよ」とおっしゃった本田先生の言葉、まさに目から鱗でした。
本田先生も「高齢の認知症の方のご家族にそういう話をすると、大抵その辺りのことを思い浮かべるのよ」とおっしゃっていましたが、例えば私の娘からすれば、彼女は私の高校や大学時代のことは知らないわけですからね、人生はとても長いものであることを改めて感じました。
家族は全てを知っているような、分かっているような気になってしまい、そうでないと寄り添えないところもありますが、その人の「人生の輝いていた頃」に何か鍵があるという気づきは、「人間らしさを取り戻す」ユマニチュードならではだと思いました。
—そこから、お母様が幼稚園教諭になる勉強をされていたという話まで辿り着いた行動力はさすがです。
手紙にも書きましたが、母は認知症になってからそうした話をし始めて、私としてはテーラーである母に誇りを持っていたので、それを否定された気もして、妄想だと決めつけて目を背けていたんです。
ところが、保育士を目指す娘が母と話しているとその話がスルスルと出てきて、娘も「これって勉強した人じゃないと知らない話だよ」と言うんです。そんな時に本田先生のお話を聞いて、私は母の人生をきちんと見ていないのかもしれないと思い至りました。
「目白の駅前」であるとか妙に具体的なことが出てきたりしていたので、そうした材料を拾ってネットで調べたところ本当に幼稚園があったんです。謎解きのようで好奇心もあり、ライターと言う職業柄もあり、幼稚園に連絡してみたら、手紙のようなことになったんです。
母と同期であった前の園長が亡くなっていたのは残念ではありましたが、そのタイミングでしたので息子さんが熱心に調べてくださったこともありますので、偶然が重なって、本当に不思議で素敵な展開になったと思います。
—本当に素敵なお話です。
母の兄弟も認知症になってしまったりしていて情報は得られないのですが、推測するに、母は幼稚園の先生になりたかったけれど、戦後の大変な時代に祖父に見込まれて仕方なく家を手伝うことになったのかなと思います。
一時、父が病気をして休職していた時期にも母が一生懸命ズボンを縫って家族を支えました。間違いなく、母の職人としての技術が母の人生を支えてきたわけですけれど、22歳の頃には別の夢があって、孫が自分と同じ夢を持っていると言うことで思い出が蘇ったんでしょうね。
—お母様の、もしかしたら「あり得た人生」ということですね。
そうですね。今回の発見がなかったとしても、今の母や私の人生が大きく変わることはなかったと思うんです。今、目の前のことを一生懸命にやらなければならない現役世代には、親の若き日にまで思いを馳せるのは難しい。私が30代だったら同じことでもそれほど感動しなかったのではないかとも思います。
でも、私も50代後半になって、そうした思い出の大切さみたいなことがちょっと分かるようになりました。自分の若かった頃の思い出話しや、希望に燃えていた頃のエネルギーを思い出すことが、今の自分を支える力になる感じがします。だから、昔の「輝いていた頃」の話をすると、母の中にも同じこと起こるのかなと想像できました。
—お母様は今はどのようにお過ごしですか。
ヘルパーさんにお願いすることもすごく増えては来ましたが、そんな生活を受け入れているように私には見えます。母は自分の親や兄弟も認知症になる姿を見ていますので、理解して受け止め、覚悟しているのかもしれません。ヘルパーさんにも私にも「ありがとう、ありがとう」と感謝しながら機嫌よく過ごしている姿を見て、要介護になっても立派だなと、我が母ながら思います。
(構成・木村環)
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