『ユマニチュードに出会って』第7回 村上裕子さん

家族介護者の体験談をご紹介します

ご家族の介護にユマニチュードを取り入れ、実践してくださる方々が増えています。会員の皆様にその体験談を募集したところ、ご家族ならではの素敵なお話が多数寄せられましたのでご紹介します。

村上裕子さん(静岡市在住)

今は亡き認知症の義理のご両親の介護、また夫の看病にユマニチュードを役立ててくださったという村上さん。「あなたは大切な存在」という思いを家族でもしっかり伝えることが介護の支えになったそうです。「ユマニチュードのお陰で本当に幸せだった」と振り返る村上さんのお話には、ご家族の関係の素晴らしさが溢れています。

「両親の面倒は私がみると決めていた」

-ユマニチュードを知ったのは、NHKのラジオ番組で本田美和子代表理事が話していたのを偶然に聴かれたことがきっかけだそうですね。

村上裕子さん はい、放送がいつだったか記憶が定かではないのですが、日頃NHKラジオをよく聴いていまして、義父に少し認知症の症状が出始めてきた頃だったこともあり、「あ、これは心に留めておこう」と思ったんです。

ラジオを聴いた後、すぐに資料となるものが欲しいと思って本を探し、その当時は2013年に出た雑誌のバックナンバーくらいしかなく、それを取り寄せて本当にむさぼるように読んで、その哲学と技術を心に留めたという感じでした。その後も出版される本を読んではユマニチュードを学びました。

—最初にユマニチュードを知った時はどこに引かれたのでしょうか。

(認知症という)病気のことをしっかり理解するということ、相手を一人の人間として大事にする、「あなたがそこにいてくれることが大事」だときちんと伝えるということがとても心に残りました。以来、両親の介護ではずっとそのことを心掛けてきました。

もちろん、介護をしているといら立つこともあるし、腹立たしいこともあって怒鳴ってしまうような時もあったんですけれど、「あ、待て、待て」と。確かラジオで(ケアが)上手くいかない時は一度は諦めてもそれは失敗ではないっていうお言葉もあって、その言葉も心に残っていましたね。

—義理のお父様に認知症の症状があったとのことですが、お母様やお父様、ご家族の介護が始まったのはいつ頃からですか。

2012年11月に当時85歳だった義母が転倒して大腿骨骨折で3カ月間ほど入院をした頃からです。退院後、家事をすることが無理になって、母の通院の介助や、全面的にではないですが家事の手伝いが始まりました。

義父は義母の2歳上になりますが、母の入院の頃に自分でも病院に行きたがって地図を買って、それも何回も買っていたらしいんですが、すぐ近くの病院だったのに自転車で行こうとして行けないということがありました。私たちが連れて行ってもすぐ帰りたがったりして、認知症の症状が出て来ていたんです。

義母は翌年1月末に退院してきたのですが、その半月後に今度は意識障害で救急搬送され、どうも膀胱の括約が悪いのではないかということでカテーテル留置になり、本格的に母の身の回りの世話が始まったんですね。父の方はまだユマニチュードを切実に必要とするほど認知症の症状が進んではいなくて、普通にケアをしていた感じでした。

—ご両親とはもともと同居していらっしゃったのですか?

はい、息子が3歳になる時に、私がアナウンサーという仕事をしていたこともあり二世帯住宅で同居となりました。両親は孫がかわいくてしょうがないという感じで世話してくれて、私は育児も仕事もとても楽になり、それぞれの生活を保ちながらも一緒にいるメリットがとても大きくてありがたかったんです。ですから、私はもし両親に何かあったら、今度は私が面倒をみたいってずっと言っていました。

—素敵なご関係ですね。

こんなことを言うと、「良いお嫁さん」ぽく聞こえるかもしれないですけれど、全然そんなことないんです。これは本当に両親が素晴らしい人だったからなんです。昔、冗談で夫に「もし私たちが離婚しなきゃいけなくなったら、私はあの両親の娘になりたいから、悪いけどあなたが出ていってね」って言ったんですね。そしたら「俺は行くところがないから置いてくれ」って(笑)。

ただ、介護では母をもっと早くにプロの手に任せていたならばという悔いが少し残っているんです。

—どういうことでしょうか。

母は2014年の6月に今度は脳梗塞を発症しました。その時は朝起きたら「何か指が変なの」って言いだして、「これは脳梗塞じゃないかな」と思って病院に連絡したら、外来に連れていらっしゃいって言ってくださったので私が車に乗せて行き、案の定、軽い脳梗塞ということで、急きょ入院となりました。

短い入院で済んだんですけれども、その間に母が変なことを言いだしたんです。お嬢さま育ちで穏やかな母が父に怒鳴るようになり、退院してからも父が母の部屋に入ろうとすると「やめて、来ないで」ってキーッと声を上げたりして。

それも今思えば、レビー小体型認知症のせいだったのかもしれないんですが、この段階ではまだ私は分からなくて、「おかあさん、それはないよ」ってこんこんと説得して、本当に今思えば鬼嫁だったと思うんですけれど。

—いえいえ。

さらにその年の9月に夫のがんが分かったんですね。検査をしたら、大腸がんで転移もありステージ4と言われました。手術は一応成功したんですけれども、ストーマ(人工肛門)を造設することになって、そのお世話も始まりました。

がんが転移していた肝臓については、2週間に一度、抗がん剤の投与を受け、更に別の抗がん剤を家に持ち帰って3日間ぐらいかけて徐々に体に入れていくという治療でした。一気に髪も抜けるし、食欲も落ち、口内炎がひどくなったりして、両親と夫の3人の世話で、それはそれは大変な感じだったんです。

ただ、その頃に「あなたがいてくれるのがありがたい」っていう思いを直接言葉で言うようにしたんです。夫はすまながって「あなたには苦労を掛ける」とか言うから、「私はやりたくてやってるんだから、そんなこと言わないで」と、そうしたやりとりが支えとなりました。

—ご家族3人のお世話が大変な中でユマニチュードがお役に立ったんですね。

そうです。その翌年の2015年の7月に母がようやく要介護1の認定を受け、デイサービスとヘルパーさんを利用するようになって楽になりましたが、3カ月ほどでまた圧迫骨折をして、そこからもう一気に弱りました。母が亡くなったのは2016年なんですが、転がり落ちるように体力が弱くなって、混乱したことも言うようになって(と厚いノートを開く)。

—全て記録を取られていたんですか。分厚い本2、3冊分ありますね。

全部、裏紙になぐり書きなんですけれど、血圧や様子を書いておきたくて。その頃のことを読むと、2016年の5月13日金曜日、ユマニチュードという言葉が出てきます。

母の血圧を測る時に、起こさないようにといきなり測ろうとしたら、すごく嫌がったんですね。「測ろうとして声を掛けると顔をしかめ、昨夜同様うるさそうに『いいわよ』っていう感じで言った。で、もう一回『血圧を測らせてもらうね』と言うと、『はい』と腕を出してくれた。これからもユマニチュードを肝に銘じよう」って書いてあります。かなりユマニチュード、ユマニチュードって思ってたんですね。

—圧迫骨折後、お母様はかなり弱られたということでしたね。

そうなんです。車椅子を借りるために介護認定を受け直したら、一気に要介護5になりました。「あなたのお母さんはもう寝たきりです」と言われたように感じてショックだったんですけれど、夫が「使える(介護保険の)点数が増えたと思えばいいんだよ。くよくよするなよ。2人で頑張って面倒みような」って。夫もつらかったと思うんですけれど、よくサポートをしてくれて、おかげで私も仕事しながら母のお世話ができました。

8月の末に夫が、私が用意しておいたお昼ご飯を母に食べさせていた時に喉に詰まらせてしまい、救急車を呼びましたが、そこからほぼ脳死状態となりました。

実は、母は前日に熱があり病院を受診していて、その晩に「もうプロに任せた方がいいのかな。私は家にいてもらいたいけれど。あなたはどう思う?」って夫に相談したら、「おふくろはうちにいたいと思ってるはずだよ。これからも2人で面倒みような」って、そんな話をしていたんです。

その翌日のことでしたので、夫は「自分が食べさせている時にむせさせてしまった」、私は私で「私の作ったご飯でむせさせちゃった」と、本当に2人とも悔いが残りました。

でもお医者さまが「引き金は喉に詰まらせたことですが、全身の機能が落ちていましたから、これは老衰に近いことです」と慰めてくださったのは救いでした。母は気管挿管で頑張ってくれましたけれど、一月ほどで亡くなりました。

毎日病院に通っていたのですが、亡くなる前の日は夕方に一度帰宅した後、夜になってからどうも気になって再び病院に行ったら、母の血圧が下がってきたところでした。最期の一晩、私が付き添うことを許してくれて「シゲ(村上さんの夫)を頼むわね。おとうさんも頼むわね」って言ってくれたのかなって思いました。

—お母様に思いが通じていたのでしょうね。

はい。それから夫が翌年の7月初めに亡くなりました。家に最期までいてもらいたいと思い、夫もギリギリまで頑張ったんですけれども、がんの最末期はせん妄が出てくるんですね。痛みも酷く、医療用の麻薬も効かない。

「病院で痛み止めの注射を打ってもらおう」って言って、騙すように6月の末に車で連れて行きました。そうしたら病院の先生が「このまま病院で最期でいいですか」っておっしゃるので、「そのつもりで連れて来ました」「じゃあ、持って1週間だと思ってください」って言われて、本当に1週間でした。

その時は全部の仕事を断って、義父は近くに住む妹にケアしてもらって、全ての時間を夫のために使うことが出来ました。

大切な「嘘も方便」の笑顔

—そうでしたか。その後、お父様のケアはどうされたのですか。

夫を看取った後は、父を1人でうちに置いておけないと思って、すぐにヘルパーさんとデイサービスをお願いしました。ずっとそのままの態勢で行けるかなと思っていたんですけれども、ヘルパーさんから、父の場合はグループホームという形が良いのではという提案があり、たまたま知り合いが大家さんをなさっている建物でグループホームがあったので問い合わせてみました。

見学だけのつもりで、入所させる気持ちは全くなかったのですが、「ちょうど今、空きがあります」ということで、息子に話したら、「お母さんがもう面倒みられない、駄目だってなった時に空きがあるとも限らない。いい機会だから手続きしたら」と言われて、それも一理あるなと思い決心しました。

ただ、もう私は悲しくて、ぼろぼろ泣きながら父の持ち物に名前付けをして。涙、涙でやってるので、「バカだな」って息子にも言われたんですけれども。

—突然のことでしたものね。お父様は入所されていかがでしたか。

暴力が始まっちゃったんです。以前もお下の世話をするときに暴力はあったんですね。でも、そういう時は、私はわざと作り笑顔でニコッて笑って目を合わせて、「おとうさん」って言っても分からないので名前で「ケンイチさん」と呼びかけながら、「○○してもいいですか」「△△してもいいですか」とひたすら笑顔で接すると、抵抗の力が抜けるんですね。

—なるほど、ユマニチュードですね。

そうです。母にもそうしていましたが、笑顔で話しかけながらお世話をすると、父も「おお、なんだ、そうか」って言う感じで受け入れてくれる。「嘘も方便」と思って笑顔で介護をしていたんですけれど、ホームではそうも行かなかったようで。

父が夜間徘徊をして、自分の部屋が分からないので、他の人の部屋に入ろうとする。それを制止すると暴力が出るということで、実は入所してすぐに夜間だけはうちで面倒みることになったんですが、いつまでもそうしていられないとのことで、病院に約1カ月入院して薬物療法を受けました。落ち着いたのでグループホームに戻ったんですけれども、やっぱり暴力が出ました。

「これ以上はホームでは面倒をみられません」と言われ、父は入所から2か月後に家に帰ってきました。またデイサービスに毎日通い、私は不規則な仕事で夜に出掛けることもあるので、日曜以外は用意した夕飯をヘルパーさんに食べさせてもらい、口腔ケアもしてもらって、寝かせてもらうという生活になりました。

—村上さんご自身は大変ではなかったですか。

本当にいろいろあったんですけれども、父がグループホームから帰ってきた後、私ね、すごく幸せだったんです。これはユマニチュードのおかげです。もう本当に腹を括って、「よし。もう徹底してユマニチュードだ」と思って介護をやっていたら、ある時、息子が「お母さん、ぎゃーぎゃー言わなくなったね」って言ったんですね。険が取れたように感じたようです。

—どんなことを実践されたのでしょうか。

夜、私がいられる時には、父が寝る時には眠るまで側にいて、マッサージをしたり、歌を歌ったりしました。ちょうど12月だったものですから「もういくつ寝るとお正月」を歌ったり。

父はケンイチという名で、よく自分で「ケンちゃんは寝るとするかな」なんて言っていたので、その「ケンちゃん」が歌詞に出てくる「あの子はたあれ」を歌ったりもして、父が「もういいよ、おやすみ」と言うまでは傍にいるようにしました。

また、とにかく口に出して「おとうさん、ありがとうね。うちにいてくれてありがとうね」って言うと、「おお、俺こそ、ありがとうな」なんて返してくれました。

—お二人のご様子が目に浮かぶようです。

「ありがとう」は母にも言ってたんです。母はおしんこをポリポリよく食べてくれたので、「お母さんがこうやっておいしそうに食べてくれると、嬉しいわ」「おしんこもね、こうやってポリポリンて食べてくれると幸せよ」って言うと、母は「私も幸せよ」って穏やかに言ってくれて。

最初、母がレビー小体型認知症と分かる前は、おかしな妄想を口にすると「何を変なこと言ってるの。そんなことないでしょ」なんて私も強く言っていたんですけれど、分かってからは話を合わせるようにしました。

母が「お猿がいるのよ、追っ払ってちょうだい」って言う時は、立ち上がって、追い払うふりをして「追い払ってきたよ」と応えたり。私たちには妄想でも、母にしてみればそれは本当のことなんですよね。だからもう、なるべく話を合わせていました。

—大変とは感じられなかったのですね。

本当に幸せだったんですよ。一時期、確かに3人の世話をしてた時には大変だったんですけれども、でも、私にできることは何でもしようと思って。

当時のケアマネさんもとても良い方で、家族だからできることとできないことがあって、プロだからできることとできないことがあるから、とにかくまずはご自分の健康を守ることが大事ですよ、自分の気分転換に遊びなさいって言ってくださって。私は遊びたいとは思わなかったんですけれど、仕事に出るとすごく気分転換になりました。

—地元テレビ局のアナウンサーをされていたんですよね。

結婚で会社は辞めましたが、フリーで仕事を続けていました。介護の当時からは、もう年のせいで司会やナレーションの仕事はめっきり少なくなって、その放送局がやっているカルチャーセンターの講師の仕事がメインで、たまに舞台の仕事がある程度です。

でも、受講生さんにもスタッフにも、介護のことはあまり言わなかったんですね。夫のことも一切言わずに過ごして、それが私の支えでもあったんです。普通によくある介護、みんなと同じでケラケラ、楽しく毎日過ごしてるよっていうような感じで、それがいい気分転換になって、支えにもなったと思っています。

「本当に本当に幸せでした」

—そうですか。今は介護も終えられて、家族介護にユマニチュードを使うことについて改めてどうお考えですか。

日本人は「愛してるよ」とか言うのは苦手だからユマニチュードは向かないと言われるけれども、お子さんに「好き好き、チューッ」とするのと同じことだと、以前、ジネスト先生がおっしゃっているのを聞いて、本当にその通りだなと思います。

とにかく実践していただいて、「愛してるよ」は難しいにしても、あなたがいてくれて幸せ、食べてくれて幸せ、着替えてくれたら「ありがとうね、自分で着替えてくれて嬉しいわ」で良いと思います。

私は嘘もよくつきまして、父や母に着替えて欲しい時には「ごめんね。私、洗濯を済ませちゃいたいの。申し訳ないけど、今着替えて欲しいの」という言い方をしました。「着替えてもらうと私が助かる」っていう感じで言っていましたね。

—それはご家族という関係ならではですね。

そう思います。「汚いから取り換えるわよ」じゃなくて、「私が助かるの」っていう感じでやらせてもらう。「技術としてのやさしさ」という言葉がありますが、それはジネスト先生もおっしゃっていて、嘘なんだけれども、相手が「自分が大事にされているんだ」って自覚できるならば、それは一つの技術だし、そのための技術はやはりなくてはならないもの、そう思います。

私は仕事で朗読や読み聞かせの講座をしています。そこでも、やっぱり技術があるからこそ、「こう読みたい」という表現ができる。例えば楽器の演奏でもそうですよね。こんなふうに演奏したいって思っても、技術がなければその演奏を表現できない。だから技術って最低限必要なもので、これは介護も同じなのかなっていう思いでした。積極的に相手が大切であることを伝える、それが大事かなって思います。

ただ夫にはちょっと照れもあって、父母と違い積極的には難しかったのですが、なるべく明るく、明るく、とにかく「あなたがいてくれるから私が今いられるんだよ」っていうような感じでいましたね。

—アナウンサーとして「伝える」というお仕事をされていたからこその「伝え方」の工夫ですね。

そうかもしれませんね。今は、認知症のケアに音読がとてもいいということで、デイサービスへの出張講座として、利用者の皆さまに音読していただいたり、時には私が紙芝居や昔話をしたりしています。

工作をしていただく時もあるのですが、例えば折り紙なら「その折り方は駄目よ」ではなく、「そういうやり方もいいけれども、こうするともっといいかもしれない」というように伝えることも、技術の一つとして心がけています。

—なるほど。

一つユマニチュードに関して、その施設でのことをお話しすると・・・。足腰が弱いので、立ち上がろうとするとすぐスタッフの方に押さえつけられてしまい、それでも必死に抵抗するN子さんという方がいらっしゃって、とても気になったんです。

N子さんは講座には参加されないのですけど、私は行くと、手をよく洗って、マスクにフェイスシールドもしたうえで、しっかり視線を合わせて「N子さん、こんにちは。お邪魔します。今日もよろしくお願いします。ご機嫌はいかがですか」とご挨拶するようにしたら、N子さんも「まあまあね」「悪くないわ」などと反応してくださるようになって、それを見たスタッフの方から「おお」って感嘆の声が上がったんです。

ユマニチュードを知っていれば当たり前のことなんですけれど、スタッフの人はただN子さんを後ろから押さえつけるだけで、何か言う時にも目を合わせないんですよね。講座の中で時々歌を歌うと、N子さんもね、歌に合わせて手拍子してくださるんです。私、涙が出るほど嬉しくって。

—素晴らしいお話です。

これはユマニチュードが素晴らしいんです。時々、そこのスタッフの方々にユマニチュードっていうのがあってね、というような感じでお話もしています。

—ユマニチュードを広めて下さってありがたいです。

ユマニチュードの認定インストラクターに、なんて思ったりもしたんですけど、これ以上欲張るのはやめて、今やってることを一つ一つしっかりやって、折に触れてユマニチュードを広められたらなと思っていますし、これからはケアする人のケアというようなこともやれたらなと考えています。

—頼もしい応援団です。

母と夫を送り、父との最期はユマニチュードのお陰で本当に本当に幸せな時を過ごせたと思っています。そのことは家族を介護される皆さんに、繰り返しお伝えしたいと思います。

(聞き手・木村環)

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