(後編)「家族をつなぐユマニチュード」南高まりさん、阿川佐和子さん、本田美和子代表理事による鼎談 レポート

第3回日本ユマニチュード学会総会で行いました南高まりさん、阿川佐和子さん、本田美和子代表理事の鼎談の模様の後編です。認知症の家族と「コミュニケーションを取る」とはどう言うことか、ケアをする側の意識の持ち方次第で広がる世界を経験者のお二方がお話してくださいました。

←前編より続く

阿川佐和子さん 父と母が共にお世話になった「よみうりランド慶友病院」会長の大塚宣夫先生がおっしゃっていたんですけれども、食堂でコンサートやおしゃべりの集いがあるっていうと、大体、男の人は出席しない。それで男性患者をどうやったら連れ出せるかと考えて、「会議がありますから上がってきて下さい」って言うようにしたら皆さん出てくるんですって。仕事モードの方が、自分の役割ができるような意識があるそうなんです。

もう一つ、これはだいぶ改善されてきたように思いますけど、認知症になるということは子供返りしていくところもたくさんあるので、どうしても子供を世話する感じになる。私もそうでしたけど、看護師さんたちだって母親とかお姉さんみたいになるから「おしっこ出た?」っていうような言い方になって、そうすると男の人はものすごくプライドが傷つけられるんですね。

だから、私が今提案しているのは、例えば、それなりの役職で部下を持っていた経験がある人には「社長、お車の用意ができました」って車いすを持っていくとか、「失礼いたします!おしもを変えさせていただきます」と、それぞれの人格に敬意を表して、それまでの人生の延長のような扱いが必要なんじゃないかなと思います。

認知症の人はどこか別世界にいって訳の分からない人だ、こっちの通常社会とは違う引き出しに入っちゃった人だと思うと、ジネスト先生の話でもありましたけれど、人間という意識が薄くなってくる。そうすると、介護する側、ケアする側が、合理的に便宜的に都合の良いシステムを作っていくというのが今までのやり方だったような気がするんですね。

でも、半分忘れててもしっかりできることはあって、母なんかは文字を読むことはすごく早かったし、5分前のことは忘れても今現在のことの反応はすごくクリアなんですよ。「忘れるっていうこと以外はちゃんとできる人間だ」ということを忘れがちになるので、そこをこっちの便宜じゃなくて、あちらがどう思うか、「あちらの世界」に思いを馳せるという必要があるんじゃないかと。

例えば、母の頭の中では、どうもさっきまで家の中に赤ん坊がいたらしいという時があって、赤ん坊が心配で「赤ちゃんはどうしちゃったの?」って聞いてくる。最初の頃は「赤ん坊なんているわけないじゃない!」って返してたんですけど、そのうちに「今、お母さんと帰った」「2階で寝てるから大丈夫」と、その世界の中にこっちが入り込むようにしました。母が考えてる世界は何なんだろうと、こっちが楽しむ方が楽になるし、楽しくなるし、笑いが出てくる。

記憶の引き出しから飛び出す「宝物」

本田美和子・代表理事 認知症の方がおっしゃっていることは、その方にとって「その瞬間の真実」であるという観点から考えることが大切だと思います。記憶がどこまで遡っているのか、その「真実」がいつのことなのかを探しだすことが周囲の人にとって重要です。人は自分が安心できる時代に遡っていることが多く、別の言い方をすると、ご自分にとってすごくいい時代である可能性があります。

私たちはたくさんの病院や施設にお伺いして、ケアで困っていらっしゃる方から「どうやったら解決できますか」ってご相談を受けるんですけど、その時に患者さん、もしくは入居してらっしゃる方の紹介をお願いしますというと、医者のプレゼンテーションみたいになるんです。どういう病気で、どういう薬を飲んでいて、血液検査がこうで、というような形式です。

医師の私にとってはごく一般的な、なんですけど、ジネスト先生は「その人はどういう仕事をしていた人ですか」「お好きな食べ物はなんですか」「どのくらい歩けますか」というところから始まるんですね。そういうことをお伺いすると、特に病院の方々は、その方の今の病気の状況は知っているけど、どういう生活史があるか、現在の生活に必要な能力はあまりご存知ないんです。

ここで私が多くの方にご提案したいと思っているのは、その方の10代から80代までの10年ごとのベストメモリー、例えば「20代でとても良かった思い出は何ですか」と聞いておくことです。その方が何かおっしゃった時に、その思い出を照らし合わせて、今どれぐらいまで戻れば、安心してもらえるかという参考になるんじゃないかと思います。

阿川さん 母は認知症になってから昔話を多くするようになって、まず小学校の2、3年の時に二・二六事件に出くわしたと。「生き証人?」と思ったんですけど、永田町に住んでいて、いつものように学校に行こうとしたら雪が降っていて、(軍人に)「ここから先は行ってはならん!」って(手でバツ印)バッてやられて、びっくりしてわんわん泣いてうちへ帰ったって。

それから父と結婚したあと、母方の祖父にとっては可愛い可愛い末娘がどうもワンマンっぽい若者に連れ去られたと思ったそうで、「結婚してしばらくしておじいちゃんがね、本当に辛かったら帰ってきていいんだよ」って言ったって。「聞いたことない、そんな話!」って私の方が泣いちゃったりして。昔話に宝物が次々、次々と出てきたんです。

歴代天皇の名前を「言えるのよ」って誦じ始めて、必ず同じところで止まって「あれ?」って言ってまた最初から。それを20回くらい繰り返すんです。普通の生活してる時にはめったに出てこなかった話や小さい頃の話がいっぱい出てきて、別の引き出しが開いたなっていうのがありましたね。

本田  そんな感じがしますよね。そういう話をされるとご本人が落ち着かれると思うので、困ったなっていうような動きが出た時に、切り札としてそれを出してみる。

南高まりさん  そうですね、ただ、時々なんですけど、父に聞きたいことがあって電話して「こういう質問が来たんだけど、どう思う?」なんて話すと、ちょっと話がずれるんですよ。その質問の答えがなかなか返ってこなくて、それこそ昔の話になってしまったり、自分の武勇伝みたいな話になっちゃったり。そういう話に流れると「ちょっと無理なんだなぁ」って私も引いてしまって。

「やっぱり認知症ってこういう風になってしまうんだ」ってがっかりする思いも今まであったんですけれど、父がすごく機嫌よく話すので、最近はしばらく耳を傾けているんですね。そうすると、すごく喜んじゃって、とても生き生きと、さらに機嫌よく話をするようになるんです。さっきの阿川さんのお母様と同じように昔の話を延々として、それで一息入れた時に「ところで質問が来てるんだけど」って・・・

阿川さん そこで改めて話を戻す?

南高さん  そう、そうすると的確な答えが返ってきたりするんです。それはびっくりしました。今まで人様の前では「時間がないからこんな戦争中の話とかキリスト教の話とかしてる場合じゃないよ」ってこっちが焦って、すると父もイライラしてきて、私も「勘弁してよ」ってなったりしたんですけど。

コロナ禍になって仕事が減ったので、話す時に横道に逸れても構わないですから、そういう話を私も楽しく聞けるようになりました。その話の最後に「ちょっとこういう質問があるんだけど、どうかな」って聞いたら、「それはね」ってパチっと答えが返ってきたりするんです。

阿川さん コミュニケーションを取るってどういうことかなって思いますね。母と対峙していて、こっちが求めていることが返ってくるのが「コミュニケーションが取れた」と思っていること自体が間違いではないかと思いました。そちらの脳みその動きをこちらが面白がって、そこで展開させていって気が付いたらちゃんと着地してたっていう方が、どっちも楽だし機嫌良くなる。

これはうちの夫が母をケアしてる時に編み出した方法なんですけれど、ご飯を食べてる時に2人がおしゃべりしていて、母が「あなたはどちらのご出身?」って社交辞令で聞くんです。「九州です」「九州のどちら?」「大分です」「大分って私行ったことないの」「どういうところ?」「暖かいところです」。私は「え、大分って雪降ったりしない?」ってちゃちゃ入れながら聞いていて。

そうすると、しばらくしてまた「あなたはどこのご出身?」って始まる。「九州です」「九州のどちら?」「大分です」「大分ってどういうところ?」「寒いところです」って、夫の答えが変わってるんです。「いつも同じ答えを言ってるとこっちも飽きるから、変えてみる」とか言って(笑)。

あと、夫が「あんまり繰り返しが続いて疲れたなって思うときは“小学校では何してました?”って質問を投げかけると、頭の動きが違う枝に広がっていくよ」って。コミュニケーションって何だろうって思うと、必ずしも真実を相手に分からせることではないっていうことに気づきだすんですよね。

南高さん  そう思います。そうすると話が終わった後の私も居心地が良くなって、ああ良かったなってお互いに思えるっていうのがいいですよね。楽ですよね。

「がっかり」を止めて「今」を楽しむ

阿川さん 楽ですよね。あともう一つ、認知症っていうのは結局は5分、10分前のことを忘れてしまう。今さっきやったことなのにってこっちはがっかりするんだけど、がっかりを止めることにしようってある時決めました。今ここで話が盛り上がって、母がゲラゲラ笑ってたらそれが一番幸せなことじゃないかって思ったの。

「さっき見た桜、きれいだったね」という過去の話は無しで、見ている時に「わぁ、きれい!」って盛り上がって、それでおしまい。5分後に「桜きれいだったね」って言って覚えていなくても、今度は「こっちのシクラメンもきれいだね」って言って、そっちに感動する。今だけで十分って途中で思ったんですけど、その辺りはまりさんも同じだとおっしゃってましたね。

南高さん  そうですね。父が同じことを何回も言った時は「私が同じことを何回も言っていると教えてあげた方がいいの?」って最近聞いたことがあるんですね。そうしたら「それは教えてもらった方がいいと思うよ。仕事の時なんかはみんなが困るでしょ」って言うんです。

南高さん  細かいことは結構ありましたね。父も時間の感覚があやふやになっていきましたから、朝6時頃に起きてしまって、お気に入りの喫茶店に出かけて行って、そこが開いてなくて、帰りにどうしたらいいか分からなくなりうろうろと。迷子まではいかなかったんですけど、どこに行ったか分からなくなったことはありましたね。

ただ、父が「桜がきれいだったねっていうことぐらいは何回言ったっていいでしょ」って言うんですね。どうでもいいって言ったら失礼だけど、季節の変化とか「あの時の桜はきれいだったね」とか、「いちょうの紅葉がきれいだったね」っていうことは「何回言ったっていいでしょ?」って私に言うから、「それはそうだね」って言って笑ったりしたんですけど。

阿川さん あら、可愛い(笑)。忘れていっている自分がいるっていう悲しさと同時に、そういう状況の自分をどうやって今の生活にフィットさせていくかっていう知恵みたいなものが認知症の方にもあって、私がご飯を作ってて、できた横から食卓に母を座らせて食べさせてたら「あら美味しい」って声が聞こえて、「何が美味しいと思ったの」って聞いたら、「これ」って緑色の野菜を取り上げたんですよ。

南高さん  オクラだったんですけれど「はい。これはなんでしょう?」って聞くと、「うーん、なんだっけ」って。「オクラ」って言うと、「なんだ、オクラ、知ってるわよ」って。それでしばらくしたら、また「あら美味しい」って。今度は何かと思ったら同じもの。「さっきも食べて美味しいって言ってたけど、これは何だった?」って言ったら「うーん、分かんない」。「オクラ」って言ったら、「あら知ってるわよ、オクラぐらい」っていうのを3回ぐらい繰り返して。

阿川さん 「なんでも忘れちゃうんだね、母さんは」って言ったら、ちょっとムッとした顔して「覚えてることだってあるもん」って言うんです。「じゃあ何覚えてるの」って聞いたら、「うーん」って考えて、「今ちょっと何を覚えてるかは忘れた」って(一同、笑)。知恵が回るなと思ったんですけれど、そうやって「恥ずかしい」みたいな意識を、ちゃんと自分の中で処理する能力があるっていうのは、有能じゃないかと思ったんですけどね。

本田  そうですよね。

南高さん  父も、電話でとっても良いことを伝えてくれたんですけどよく聞き取れない時があって「ごめん、ちょっと今書くから、もう1回言ってくれる?」って言ったら、「そういうことは難しい」って(一同、笑)。そんな笑い話もありました。

阿川さん 私は母に自分の名前を忘れられると悲しいなと思って、最後の砦みたいなものですから、会うと必ず「これは誰ですか」って聞いていたんです。名前がすぐ出てくる日もあるし、10分後に出てくることもあるんだけど、一瞬「うっ」と分からなくなる。それで、(自分の顔の鼻あたりを指差して)「これは誰ですか」って聞くと、その答えが「お鼻子ちゃん」って。「いやいや、そういう名前じゃないでしょ」って。

だんだんと、私は母のおばあさんになったり、お姉さんになったりするから「え、忘れちゃったの? 佐和子って覚えてる?」って聞くと、ニヤッと笑って「私がボケたとでも思った?」って(笑)。色々な知恵を使って生きてるなっていう気がしますよね。

本田  そうですね。阿川さんのことをお姉さんやおばあさんって思う年代にご本人が戻ってるということですものね。その時は30代のお母様とか20代のお母様とかに戻っている。

阿川さん 5歳ぐらいの時もあるし。

本田  そういう時は、5歳ぐらいの時のお話が泉のように湧いてくると思います。

阿川さん 私は、「介護」というものの90%は嘆き悲しむとか、イライラすることだと最初は思ってましたけど、認知症の母と付き合ってみるとおかしいことだらけで、母の脳みそは一体どういう変化を起こしているんだろうと、それが分かったら面白いなと思いました。

元に戻ることはないにしても楽しむ手立てはいっぱいあるんじゃないかっていう気持ちになると、もちろん物理的には大変だし、面倒臭いことはたくさんあると思いますけど、何て言うかな、おかしいものを探せば必ず出てくるんじゃないかっていうことを今、「辛い辛い辛い!」って思っていらっしゃる方には申し上げたいなと思いますね。

本田  そうですね。今が幸せであるという状況、5分前のことは忘れちゃってるけど、今は楽しいっていうことが連続すれば、ずっと楽しい時間を過ごしていただくことができますね。介護が辛いと思ってらっしゃる方に、武器と言いますか、道具と言いますか、「これを持っていけば大丈夫ですよ」っていうようなことを具体的にお伝えできたらいいなと思います。

阿川さん 「ことことこーこ」という小説で母親が徘徊してしまうところを書いたのですが、その時に、子供は「迷子」なのに老人は「徘徊」っていう言葉しかなくて、その中間の言葉はないのかなと思ったんです。

(周囲から見れば)「あのおじいちゃん徘徊してるのかな」と思うかもしれないけど、本人にしてみれば何かの目的があって家を出てるんですよね。どこかに向かおうとしたんだけど、そのプロセスが分からなくなっているだけだということを、もっと周りは認識して差し上げる必要があるんじゃないかと思いました。

「徘徊までしちゃった!」ってなると大変な感じで見ちゃうけど、そうじゃないんじゃないかなって。まりさんのお父様だってコーヒー飲みに行きたいから出かけて、たまたま出かけた時間が悪かったっというだけですよね。

南高さん  そうですね。

本田  行動には常に理由があるといいます。ご飯を食べない時も、もしかしたら食事の出し方の問題であるとか、お箸の使い方が分からなくなっているのかもしれません。

実は私、先ほどジネスト先生が講演でご紹介した大津さんご夫妻のところにお伺いした時に、お昼にみんなで食べようと思って、幕の内弁当をお持ちしたんです。お弁当箱の中が小さく九つに仕切ってあって、その一つ一つに素敵なおかずがいっぱい入っていたのですが、奥様は「うわぁ、きれい」っておっしゃるけど、手を付けない。どれから食べていいか分からないんです。

大津さんが「こういうのは苦手になってるんです」とおっしゃり、その中のおかずを一つだけ取ってお皿に出すとお召し上がりになりました。幕の内弁当では情報が多すぎるんです。

こうした食事だけでなくあらゆることに共通すると思うんですけれど、分かりやすく情報を出すことと、その方のことを大事に思っているということを私たちが上手くご本人に伝えられると、楽しい生活をずっと続けていただくことが可能なんじゃないかなと思いました。

「触れる」こと「見る」ことで伝わる愛情

阿川さん あっという間に終わりの時間が近づいてきたんですけど、南高さんはユマニチュードに出合って、これは役に立ったなとか、この考え方に同意するなとか、これは違うなと思うことはありますか?

南高さん  父には興味のある話をしてあげたいなっていう気持ちがあるので、ユマニチュードの「言葉をあふれさせる」ということは、なるべく本人の興味を引く楽しいことから入っていくのがいいなって思ったことはありました。

あとは、実家にいた時は父の顔なんか見ないで帰ってきちゃうこともあったんですけど、今、施設を訪ねたときは、正面に回って「まりだよ、来たよ」みたいな感じで父の目をアイキャッチして話すと、本当に喜んでくれます。笑顔で「うわぁ、来てくれたの」って、認識の笑顔の力をすごく感じるようになって、ユマニチュードがちょっとできたのかなって思います。

阿川さん 私は父とはそういうことはなかったんですけど、特に晩年は母とスキンシップというか、帰る時にギュッと抱きしめるようにしました。母は「痛い、痛い!」って言いながらもゲラゲラ、ゲラゲラ笑ってて。やはり本当に肌で触れ合うっていうのは、何か見えてくる、感じるものがあるんですね。

南高さん  父が母と一緒に老人ホームに入った初日、入居の日にですね、私が帰ろうとしたら、父が「まり、写真を撮って」って言うんです。そういうことを言ったのは父の生涯で初めてだったんですよ。私がカメラを向けると、母のことをギュッと抱きしめて、まるで母の体温を感じることで自分の存在を確認しているような光景でその時の2人の笑顔っていうのが、すごく印象的でした。

阿川さん ご著書にありましたね、その写真。本当に仲睦まじいというか、お父様はお母様のことを愛してるのね、って感じで。

南高さん  母の体温を感じることで自分の存在を確認しているような、そして娘の笑顔も丸ごと感じてくれた笑顔だったかなって思って、ああいうのはもう撮れないと思いました。

本田  素敵ですね。

阿川さん うちは父が先に老人ホームに入ったので、認知症の母を連れて週に1回お見舞いに行っていたんですけど、父は母のことをとても心配していて、病室の外まで私たちを見送った時、ドアのところで母に握手を求めたんですね。

「えっ!?」って母も戸惑って、「佐和子ともやってくださいよ」って言ったら、私とはやりたくないらしいの(笑)。母に「お前は体を大事にしろよ」とかなんとか言って、握手して見送ってくれたんです。

帰ってから「父さんが握手求めてきた。触りたがってたよ。嬉しかった?」って聞いたら、母が「いまさら」って。「冷たっ!」て思いました(一同、笑)。

本田  夢のような時間でしたが、そろそろ終わりにしたいと思います。

阿川さん お役に立つ話が出来たかどうか。まりさんはこれからも色々乗り越えなきゃいけないことがありますね。

南高さん  ホームの方たちが本当に優しくしてくださるので、楽しんで過ごしてもらいたいと思います。

本田  南高さん、阿川さん、本日はありがとうございました。そして今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。ご参加いただいた皆様も今日はありがとうございました。

※11月13日に逝去された南高さんのお父様、長谷川和夫さんを偲ぶ場が、「認知症フォーラム.com」に作られました。まりさんが撮影されたお写真が日替わりで掲載されています。

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