(前編)「家族をつなぐユマニチュード」南高まりさん、阿川佐和子さん、本田美和子代表理事による鼎談 レポート
第3回日本ユマニチュード学会総会にて生存科学研究所と共催で行いました市民公開講座「家族をつなぐユマニチュード」から、自らが認知症であることを公表した医師・長谷川和夫さんの長女で、精神保健福祉士の南高まりさん、作家・エッセイストで本学会理事の阿川佐和子さんと本田美和子代表理事の鼎談の模様をご紹介します。家族介護の当事者でいらっしゃる南高さん、経験者の阿川さんのお話は、ご家族への率直な愛と優しさに満ちたエピソートが満載です。
※長谷川和夫さんは11月13日に逝去されました。ご冥福をお祈り申し上げます。
長谷川和夫先生は、1929年生まれ。「長谷川式簡易知能評価スケール」を開発し、「認知症」への名称変更の立役者でもある認知症専門医。2017年に自らが認知症であることを公表して以降、当事者の立場から認知症の人の想いを発信している。
認知症——本人の葛藤、家族の葛藤
本田美和子・代表理事 ここからは「家族をつなぐユマニチュード」と題して、南高まりさん、阿川佐和子さんと3人で進めて参りたいと思います。
南高さんは、私たちが臨床でいつも使っている長谷川式認知症スケールを開発なさった長谷川和夫先生のご長女でいらっしゃいます。先生が80歳を過ぎた頃から、先生の主な活動に付き添われ、そのご経験に関する著書「父と娘の認知症日記」(中央法規出版)を出版されました。長谷川先生との生活も含め、ご家族としてのお話をお伺いしたいと思っております。どうぞよろしくお願いいたします。
南高まりさん よろしくお願いいたします。
本田 そしてお隣にいらっしゃるのは、皆さまご存知の阿川佐和子さんです。
阿川佐和子さん よろしくお願いします。
本田 阿川さんは認知症がテーマのひとつである小説「ことことこーこ」(KADOKAWA)をお書きになる時にユマニチュードについてご興味を寄せていただき、声をかけてくださったのがきっかけで、現在は日本ユマニチュード学会の理事としてお力をお借りしております。今日はこの3人で色々なことをお話しできたらと思います。
阿川さん 私は母が2020年5月に92歳で亡くなりまして、父が2015年に94歳で老衰で亡くなりました。父と母が2人暮らしをしていた2011年ぐらいから、母が「あれ?」っていう認知症状を起こすようになり、父は最期まで記憶力はしっかりしていましたが、その頃から両親の介護が始まったんです。
(介護をしたのは)10年近くですが、そんなにべったり看ていたわけではないし、手伝って下さる方もいっぱいいらっしゃる中で「さあ、次はどうする」「さあ、次は」とやっているうちに今に至るので、本当に介護で苦しんでいらっしゃる方に比べれば楽でした。
認知症になった母自身は昔から明るく素直な性格で、私は父に似て性格が悪いんですけど(笑)、その母が認知症になった時に、性格がひがみやすくなるとか、疑いやすくなるとか、怒りっぽくなるということが起こるのかと思っていたら、元の母の性格のまま記憶力だけが少しずつ低下していきました。私は「認知症優等生」と呼んでいたんですけど、手のかからない母だったので、そういう意味でも皆さんより楽をしていたなと思います。
今回、南高さんにお会いするにあたり、「父と娘の認知症日記」を拝読して、認知症になられた御父上とお嬢さんとの愛情溢れる関係が羨ましく、「こんな優しいお父さんならケアしたいわね」っていう思いがしたんです(笑)。
その中で、まりさんがご長女としてどれほど色々なことに気を付けたり、反省したり、学習したりしながら今に至っていらっしゃるのかお聞きしたいと思うのですが、まりさんの場合はお父様、私の場合は母と、性の違いでも色々あるんじゃないかという気もしています。
特にお父様自身がお医者様、研究者として認知症の権威でいらっしゃって、そのご本人が認知症になってしまったということに、最初から自覚があったというのがすごいなと思ったんですが、どの辺りで(認知症になられたと)感じられたんですか?
南高さん 父自身が「あれ、おかしいな、どうしたんだろう」と思い始めたのは、だいぶ前からなのではないかと思うんですけれど、母と2人の生活の中ではルーティンで同じことを繰り返していますので、それほど大きな変化を家族はあまり感じていなかったと思うんですね。
阿川さん それは本当にそう思います。知り合いのご主人様に会ったときに「ちょっとおかしいな」と思ったんです。それを奥様は周りに言わないで闘っていらっしゃるのかと思って、私は「もしかしてご主人様は認知が・・・」ってお話したら、奥様に「分からなかった。よく教えてくれた」って言われたんです。食事をする、寝る、お風呂に入るという普通の生活では、ご本人が自覚していても、症状がそんなに顕著に出ないということもあるんですね。
南高さん そうですね。もともと父は昭和の初期に生まれた人ですから、生活の中の、例えばお茶碗を洗うとか、お料理をするとか、洗濯をするっていうことを何十年もやっていない人でした。
阿川さん 全部お母様にまかせっきり。
南高さん はい。自分の下着がどこにあるかも分からない、銀行のキャッシュカードの使い方も分からないようなタイプですので、ケアマネージャーさんには最初から「長谷川さんは要介護認定1ね」って言われてました(笑)。そんな父でしたから、最初、生活上で特に困ったことはなかったのではないかと思います。
現役で講演に出かけたり、人様に会ったりということが少しありましたので、その中で父が「いつもと違うな」「自分が何を話してるか分からなくなっちゃったな」と、後から本人の了解を得て日記を見せてもらったらそうした葛藤が記してありました。
阿川さん 日記をつけていらしたんですね。
南高さん 毎日、何十年も日記をつけていたんですね。それを見る限りですけれど、闘っていた様子といいますか、「おかしいな」「なんとかごまかした」と頑張ろう頑張ろうとしていた、そういうニュアンスの言葉がありました。そのうちに、人様に気づいていただいた部分、周りの後輩の先生とか、介護をしてくださった方が「あれ?」っていう風に思うことが少しずつ重なっていったというのがあったかもしれません。
阿川さん 私の母の場合は、2011年3月の東日本大震災の半年ほど後に心臓の手術で入院したのですが、母に「あの地震怖かったね」って言ったら、何も覚えていなかったんです。「あれだけ大きな地震のことを覚えていないなんて」とびっくりした記憶があったので、おそらく2011年ぐらいからだと思うんです。
後から母の部屋を整理したら、日記はつけていなかったんですけど、「これはとっておかなければならない」「このレシートはここに」「重要キープ」とかたくさんメモを書いていました。「無くしたもの」っていうメモに「出てこない、バカバカ、私バカになっちゃった」とあるのを発見して、家族が気付くよりずっと前に、自分で自分が壊れていっているんじゃないか、これからどうなるんだろうと不安を抱えていたんだと知りました。その当時は全く気づいていなかったので、それは小さな後悔です。
想像ですけれど、母が一番苦しかったのはこうして独りで葛藤していた時と、まだ半分ちゃんと生活できる力を持っていた時だと思います。一般的にまだらの状態のときはイライラも激しいと言いますけれど、その頃の母は心臓の病気もあって薬を飲まなくてはいけないので、飲んだか飲まないのか分からない状態になると、こっちもカーッとなって「さっき飲んだって言ったのに飲んでないの?」と詰問してしまい、母を泣かせることがよくあったんです。ご著書にはまりさんのお父様が荒れた様子は全く出てこないですね。
南高さん よく認知症になると怒りっぽくなる、イライラするという症状が出てくると皆さんおっしゃるんですけど、父はもともと気が短かったり、せっかちなところがあったので、認知症になったからといって、急に怒り出すとか、イラついて物を投げるとか、そういうようなことはありませんでした。
阿川さん それは奥様やお嬢様、ご家族の対応が優しかったということはないですか?
南高さん 父が自分で言ってましたけど、父自身は「もう1人の僕を見ている」というか、認知症になった自分を観察してるような冷静なところが最初からあったのかもしれません。
阿川さん さすが科学者ですね。認知症ではない僕が、認知症の僕を観察していることの観察結果はお嬢さんに報告はあったんですか?
南高さん 私、父に直接「認知症にならないほうが良かった?」とか「認知症になったことを後悔してる?」ってズバッと聞いちゃったりしてたんですね。
阿川さん ストレートですね(笑)。
うちは父があるとき家族で外食をした折に、母がお手洗いに行って姿がなくなった途端に、子供たちに向かって「いいかお前ら、気が付いているかどうか知らないけど、母さんはボケだ!母さんはボケだ!母さんはボケだ!」って3回繰り返したんです。
「そんな大きな声で言わなくても。分かってます、分かってますから」って言ったんですが、父親はそれで自分の覚悟を決めようと思ったところがあるのかもしれません。父にしても私にしてもそうでしたが、初期の頃は「まだなんとか学習させれば元に戻すことができるんじゃないか」って希望を持つでしょ? 漢字ドリルとか計算ドリルとか「これを毎日やるように」って渡したりして。
あと、父はテストをするんですよね。父が入院していた個室のお手洗いに母が行くというと「流し方は分かるのか」って母に確認する。「そんなこと分かりますよ、やあね」ってお手洗いに入ったあと、しばらくすると「あれ?あれ?あれ?」って声が聞こえてくるの。そうすると、父が「ほら、お前は分かるって言ったのに分からなかったじゃないか!」って怒って、出てきた母に向かって「もう一度行って流してみなさい。覚えなさい」って言うの。
そういうキツい対応をしてなんとか治そうとあがいて、途中で(無理だと)気づくんですけど、まだ初期ならこっちに戻ってこられるんじゃないかって、そういう時期って家族はありますよね。そういうことはなかったですか?
南高さん そうですね、どちらかというと私たちは、「あーあ、しょうがないや」っていう風で。
阿川さん 諦め、はやっ!(一同、笑)
南高さん 諦めよりも「なっちゃったね」っていう受け止め方だったような気がします。認知症っていうのは、年を取れば多かれ少なかれ症状が出てくるんだというのは前から家族で話していて、父とも話していたことがありましたし、どちらかというと自然に受け止めて「しょうがないな」と。
介護は長期展望で 独りで抱え込まない
阿川さん 実生活では何かとトラブルが起こるわけでしょ? 薬を飲んだって言ってるのに飲んでなかったりとか。
南高さん そうですね。
阿川さん 私の母の場合には、大事だと思うものはどこかに隠しておかなくてはという気はあるらしくて、戸棚に入っていたはずの銀行の通帳やお金がなくなって、下着の引き出しに隠したりしていて、家族が一日中捜索活動ということがあったり。こちらもイライラしちゃいかんと思いながら「時間がないのにどこにやっちゃったの!?」と、そういうトラブルはなかったですか?
南高さん 細かいことは結構ありましたね。父も時間の感覚があやふやになっていきましたから、朝6時頃に起きてしまって、お気に入りの喫茶店に出かけて行って、そこが開いてなくて、帰りにどうしたらいいか分からなくなりうろうろと。迷子まではいかなかったんですけど、どこに行ったか分からなくなったことはありましたね。
阿川さん 冷や冷やするような。
南高さん そうですね。私は離れて暮らしていましたので、母から電話がかかってきて「行方不明なのよ、みんなで探してるんだけど」っていうことは何回かありました。
阿川さん まりさんご自身にもご家庭と仕事があるでしょうし、介護っていうものに時間を割かなければいけなくなった時に葛藤はありませんでした?
南高さん そうですね、近くに妹がいましたし、弟も時々顔を見せてくれてましたから。子供たちが来るというのは父にとって嬉しいことだったので、そういう面では恵まれていたと思います。今でもそうですが、独りで抱えないで済んだというのは良かったと思います。
阿川さん 先ほど(※鼎談前のジネスト氏の講演内での)ビデオで登場した大津さんご夫妻は、どうみてもご主人様が8割方、奥様の世話を1日中してるんですけど、一般的に他人に頼るのはお金がかかるとか、誰に頼っていいか分からないとか、今はデイサービスなどの福祉の制度があるけれど、それもなかなか難しいという人もいますよね。
本田 大津さんの場合は、お嬢様夫妻が一緒に住んでいらして、大津さんの奥様も今はデイサービスに時々お出かけになっているんですけれど、そこに到るまではとても大変だったというお話をしてくださいました。
阿川さん 私も兄弟は4人なんですけれど、娘は私1人で、しかもその時は結婚していなかったから、サラリーマンの弟や海外に転勤している弟になかなか頼りにくいものがありました。
それでも非常に協力的に「週末は誰がみる」っていうシフトを組んで、カレンダーを作ったりしてやってはいましたけど、どこかで最初の頃は「私がやんなきゃいけないんじゃないか」という意識があって。「抱えているレギュラーの仕事を半減させて、父と母の家に私も一緒に住んで合間にできる仕事をして、出かける仕事は止めて」とワーッて考えたんですけど、それをやったら私が壊れるなと思いました。
もう一つ、同い年ぐらいの学生時代の友達に話すと、みんな大体、介護経験があるんですね。そういう人たちが「私はね、舅さんを施設に入れてようやくホッとしたと思ったら帰ってきちゃったのよ」とか「ヘルパーさんに来てもらったら、その人と気が合わなくて勝手に辞めさせた」とか色々なトラブルの話が出てきて、「これはやらない方がいい」「これはやった方がいい」みたいなことをアドバイスしてくれたんです。
そうした中で「アナタ、この2〜3年頑張ろうと思ってるでしょ? それは甘い!」って言われて「えっ?」と思って。「介護なんて10年、20年かかるかもしれないのに、今から力を入れたらあなたが倒れるよ。力を抜きなさい」って言われて、本当に「そうか、長期展望が必要なんだ」と気づきしまた。
それから、楽になる方法をあれこれ考えようということを模索し始めて、「1人で背負おう」「私は正義の味方、良い娘だ」と見せたいがためにやるのは、逆に良くないことなんじゃないかと思ったんですけど、南高さんはどうでした?
南高さん 私の場合はこの2〜3年、父の隣にいて人様の質問を受けるという機会がすごく多かったんですね。認知症だと公表したがゆえに取材が色々入ってきて、それは現役の時より多いほどで(笑)、人気者になって、仕事が増えちゃって。
阿川さん お父様は嫌がらなかったですか?
南高さん 人様に会うのはもともと好きな性格なので、喜んで出かけていきましたし、その目標のために体の調節を頑張って、熱を出さないようにしよう、風邪をひかないようにしようと、励みになったと思うんですね。私はいつも父の肩が触れるぐらの隣に一緒に座って人様の話を聞いていましたので、時間の経過とともに、父がすごく話を聞きづらくなってるな、受け止めにくくなってるなと感じました。
「1年前は耳に入ってきたことが、箇条書きにしてあげないと大変かな」とか「抽象的なことは入りづらいから、もう少し分けて話してもらえませんか」って言いたくなったり。それを父と一緒に感じることができたっていうのは、父の変化が分かるというと大袈裟ですけれど、父の気持ちを隣で感じることができたかなっていうのは少しありました。
阿川さん 男と女の違いでいえば、男の人って社会対自分の関係性というものを長年築いてきて、そこの中で自分がどんな態度を取ったり、どう役立つかっていうことを意識しているわけですよね。母のように家でずっと専業主婦をやってきた人間とは少しベクトルが違うような気がします。多分そうやって、外界との接触が元気の素になるっていうことはおありだったのかもしれないですね。
南高さん そうですね。今、父は介護施設にいるんですが、最近、父がちょっと機嫌が悪くなる時ってどういう時なのかなって考えていたんです。施設の職員さんはとても良くしてくださるんですが、私が訪ねていきますと、父と母がいても、どちらかというと私に話しかけてくるんですよね。
阿川さん その方が話が早いから。
南高さん はい。(施設での両親の様子を)すごく丁寧に話してくださるんですけれど、その時、ふと父の顔に目をやると、眉間にしわを寄せている感じなんですね。だから、前のように父に隣にいてもらって一緒に人様の話を聞く、両方に話してもらうという感じにしたらどうかなって。
阿川さん お父さまにしてみれば、疎外されたような気分になっちゃう。
南高さん 以前からよく父は「人が話すときは丸テーブルがいいな」って言うんです。上座とかなく、みんなが等しい関係で丸いテーブルを囲んで話したらいいなって。ただ、今は時間もないし、面会時間も15分ですから、職員の方が私に話すというのは無理もないんですよね。
阿川さん コロナ禍でもありますからね。
南高さん ええ。仕方ないんですけど、そういう時の父って「なんで僕をないがしろにするんだ」という表情で。自宅にいた頃、ケアマネさんが来て色々おっしゃる時も自分が置き去りにされてるっていうような表情をすることがありました。
仕事モードじゃないですけど、父と隣にいて一緒に話を聞いている時はすごく機嫌よく人様に対峙していたので、そういう風にやってみるのはどうかなって昨日思いました。
阿川さん 日々発見ですね。
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